好きなことは色々ある。やっていて楽しいと思うことはたくさんある。親や上の世代の人たちからは、「1つのことに専門家になりなさい」と、しつこく言われた時期もあったけれど、結局興味がいろいろありすぎて、1つには絞れなかった。大学でも専攻の文化史以外に、心理学を勉強していたし、音楽もやっていた。文章を書くことも好きだったから、小説も書いていたし、サークル活動もしていた。途中で飽きてしまうことも多かったけど、結局心理学は資格まで取得したし、旅行の資格を取ったときに文化史(日本史)の知識は大いに役立ったし、文章はいまだに書いている。企画書を書くのは得意だし、調べものも好き。やってきたことに無駄はなかったと思える。でも、1つのことに専門家とは言えない。
だからこそ、ライターという、昨今では競争率の高い仕事についていても、あらゆるテーマで書くことができるし、最近では占いや心理学が私の収入源になっている。やりたいことはまずやってみる。好きになるかどうかは、やってみなくちゃわからない。
それで本気で好きだと思ったのが、占いと読書と書くことと、海外ドラマを見ること、料理なんだと思う。美容は自分のためだから、好きでやっているというよりも、自分のためにやっている。ヨガも健康を保ち、ピラティスも将来の足腰を鍛えるため。
1つのことで専門的になったほうが人生大成していたんだろうけれど、そもそも成功したいというよりはやりたいことをやりたいように、生きたいようにやってゆきたいというタイプだから、飽きたらやめる。それでいいと思ってる。それも生き方のひとつだから。若い頃は、周囲の大人たちに「そんないろいろ手を付けて、、、」と言われると、非難されているようにしか感じなかったし(大人は「心配」「あなたのため」というけれど、それが本当に相手のためかどうかは、先々になってみなければわからない)、20代の人生経験の浅い人間に「専門性」が大事だなんていう考え方はなかった。年を重ねて半世紀以上生きた今でも、専門的にやっている人はすごいなとは思うけど、私はそういう生き方はできなかったな、と思うので、何がその人のためなのかなんてわからないし、アドバイスをする方も成功した人生なのか、といえば、正直若い頃の私にはそうは見えなかった。失礼ながら、、、。
人生は一度きり。だから、生きたいように生きたほうがいいように思う。とはいえ「生きていく」ということは、実はそれほど簡単なことではない。生きたいように、やりたいことをやって生きていく、ということは一見とても自由に思えるけれども、実際はバリバリの自己責任論に固められる。もし失敗したとしても、誰のせいにもできないし、環境のせいでも時代のせいでもないことは自分が一番よく知っているから。だから、自分が自分を責めることのないように、生きたいように生きるし、やりたいようにやるけれど、失敗した時に自分が苦しまないように、必死で努力しなくちゃいけないということにもなる。
好きなことをやって、好きなように生きている。同世代の人には「いいよね、自由で」と言われるけれど、実は最も自由ではない生き方なのではないかと思う。サボれば、自分が自分を戒める。結果が出なければ「自分の何が悪かったのか」と自分と向き合い続ける。そういう風に生きてきたから、好きなことをやっているけれど、自由だとは思ったことはない。もちろん、時間的な自由はあるし、自分の裁量で物事を進められるから、そういう意味では気が楽だ。誰の許可を得る必要もない。でも、結局自分が自分を縛ることになるし、自分が自分に厳しくなる。そうしなければ、目標を達成したり、理想の結果を引き出すことなどできないからだ。
確かに私は「時間的には自由」だ。でも、精神的に楽だと思ったことはない。好きなことをやって、やりたいように自由に生きるなんて、我がままだという人もいるけれど、私には「お勤め」という生き方は合っていないし、私がやりたいことに「お勤め」は必要ないから選択しなかっただけのこと。どこかの会社で正社員になって収入的に安定するというのはむしろ”自由”だと思うし、時間的な自由があることはむしろ”自己責任で高いハードル”だと思う。どういう生き方を選ぶかはその人次第。フリーランスが「フリー」という単語に騙されて、「自由な生き方」「何物にも縛られない生き方」だと思ったら大間違いだ。好きなことをやっていくというのは、自分が自分を縛り、常に自分と向き合い続けなければならない生き方なのだから、私は最も茨の道を選んだような気がするのだ。
そんな生き方を、もう23年も続けているわけだから、今更そこから引退する気持ちもないし、死ぬまでこの生き方をしていくんだろうな、と思っている。