外出するときはカメラを手放さないようにしている。できるだけカメラを触って、心に響いた風景を撮る瞬間を逃したくないから。さすがに病院に行く時は持ってはいかないけれど、でも、ほとんどの外出は持っていく。日々の近所へのお買い物でも、散歩でも、商店街へ出向く時も。今はスマホがあるから、カメラはいらないんじゃない?という人もいるけれど、やっぱりカメラとスマホじゃ撮った瞬間の感覚が全く違う。
先日、名古屋のお寿司屋さんに行った時、大将に料理、鮨の写真を撮る許可をもらって、写真を撮っていたら、「今どき珍しいね。カメラなんだ」と言われた。「え、そうですか?」と答えると、「スマホだとさ、なんか味気ないよね。撮ってもらって何かに投稿してもらうのは嬉しいんだけど、こんな風にカメラを取り出しているのをみると、カメラでわざわざ撮ってくれている、っていう気持ちになって、こっちも張り切って、いいものだそう、って気持ちになるよね」と。
あ、そういいものなんだ・・・と、小さな喜びと気づきがあり。
確かにカメラは、わざわざ持ち歩くものだし、最近は軽量のミラーレス一眼があるとはいえ、ひとつ荷物が増えるのでかさばるし、カメラの面白さがわからない人から見ると、なぜわざわざスマホで代用できるものを持ち歩くんだ、という疑問がわくのもわからなくはない。
ただ、一眼レフ、ミラーレス一眼というのは、シャッターを切った瞬間に浮かび上がる切り取った目の前の風景がたまらなく魅力的に写るものなのだ。私はプロのカメラマンじゃないし、写真の勉強をしたこともない。だから下手の横好きと言われるかもしれないけれど、それでいい。そもそも創作物は自己満足から始まるものだと思っているから。やっていて、作っていて、写真を撮り続けて、自分が「ちょっといいんじゃない」と思えるものでなければ、世の中には出ていかないわけだしね。「ちょっと、なかなかいいでしょ」って自分が思えるから、例えばコンテストに出そうと思うし、誰かに読んでもらいたいとか思うもの。そこが原点。批判もされるかもしれないけれど、その批判に同意できる時は修正すれば自分の糧になる。周囲のアドバイスも、全くの的外れ、ということもあるけれど、そうでないこともあるわけで、そういうのの中から、自分が吸収できるものを得てゆけばいい。私はそう思っている。(だからあんまり成長しないの?とも思うけど、、、)
カメラを持ち歩いていると、日常生活のさりげない瞬間に美しさがあるという気がする。ただ公園を手を繋いで歩いている親子。そこに太陽がさして、西陽が長い影を作る。その影を撮ると、そこから物語が感じられるような気がする。親子のさりげない日常の物語を紡ぎ出していくような気がするのだ。写真というのは、そこに映し出された風景が語りだすもの。その写真を撮影した人の思いが感じられること、伝えられることが魅力なのだ。
仕事柄、タレントさんの宣材写真を見ることがある。実はタレントさんの魅力より、カメラマンさんがその被写体に対して、どういう思いで撮っているのか、というのがわかってしまうのことがある。カメラマンの側が「お金稼ぎ」と思って、「とりあえず撮る」という感覚で撮っているとか。カメラマンがモデルさんを見下しているとか。そういうの、全部わかってしまう。感覚だけれど。テーブルフォトでも同じ。自分が作った料理だと、やっぱり愛を込めて撮る。でも、写真を使って何か相手を嫌がらせたい、と思って撮っている写真は、そこからありありと、その負のエネルギーを浮かび上がらせてくるので、何か不快な思いがする。これはわたしにスピリチュアル的エネルギーがあるからではなくて、その写真が何を伝えてきているのだろう、と考えていけば、自ずと感じるものだと思う。
それがわたしが考える写真の魅力。だからカメラを握る。RAWで撮影して、自分が伝えたいイメージになるように少し手を加える。少しずつわたしの世界観が出来上がる。それが楽しい。だからわたしはカメラを手放さない。
そうそう、昨日SNS断ちをしてみた。せっかく料理インスタを続けていたけれど、なんとなくやっぱり性に合わない。正確には今日から1週間、SNS断ちをしてみようと思う。それでどういう気分になるのか、どういう風に生活に影響があるのか試してみたいと思ったから。まぁ、想定するに、SNSをやめたからといって、生活には何ら影響がないはず。SNSに写真を投稿しても、ほとんどがスマホの小さな画面で見るだけだから、それは写真の面白さを全く感じられないような気がする。もちろんプロのカメラマンが撮った写真はとても美しいけれど、大きな画面で見たら、もっと美しいんだろうな、心が震えるんだろうな、と思うと、なんとなくSNSのアプリで見る気持ちになれない。老眼のせいもあるだろうけれど。
それで、SNSをやめて、全部ブログに切り替えることにした。今は、ある程度過去のSNS上の投稿を整理して、少しずつここに移行していこうと思っている。移行といっても、たいした量の投稿ではない。結局好きではないことは続かないわけで。好きではないことを無理やりやるのは、ただの「作業」になってしまうから、やらない。それは作業であって、創作ではないから。
ブログは好きだ。自分が与えられた空間の中で、自由に言葉を紡げるから。写真も自分が与えられた環境の中で、自分の感覚を頼りに自由に世界が作れる。わたしはそういう「創作」が好きなのだ。もちろん創作は、「与えられた一定の条件のもとに、その範囲の中で自由に生み出すもの」だから、何もかもが自由というわけではない。ただその、与えられた一定の条件をいかに自分のものにして、自分の感性を最大限に表現するか、ということが究極のテーマのように思う。わたしにとって表現するためのツールが文章であり、写真であり、それを表現するためのプラットフォームがブログということなのだ。
創作は限りなく自由だ。でも何もかもが許されているわけではない。もちろん、いや当然のことながら制限というものがある。制約というものがある。だからこそ創作は面白いわけだ。創作という生き方を人生の中で選び、それがお金になるかどうかはわからないけれど、少なくとも今はライターとブロガーと占い師という生き方で文章を書き、ブログや記事のために写真を撮り、占いをしてお金をいただいている。(占いが創作だとは思っていないけれど、テキスト鑑定なので、文章を書くという意味合いで)ありがたいことに。生きていられるということは、わたしの「創作」という生き方が多少なりとも世の中に受け入れられているということなんだと思う。ま、創作が自己満足から始まることなのだから、受け入れられていると自己満足的に思ってもいいよね。。。。